「時に耐える」ということ

あるものが役に立つ時、そのアクションを起こした瞬間にすぐさま効果を発揮する(=即効性・機能性に優れる)が、その瞬間だけで効果が長続きしないものがある一方、その瞬間はあまり役立たないようなものが、のちのち大きな効果を発揮し重要な意味を持ち得ることがあると思う。ことに人生に関しては特にそういうことが言えるのではないか。


今日、仮止めであるが一応は研究の方向性がやっと決まった。整理すべき問題はこれをキチンとやれるか。
まあでも、集落調査の起源から始まって、構造主義や原さん、記号論ノーテーション、吉阪隆正、シチュアシオニスト、コンスタント、チームX、アルド・ファン・アイクとかなり広い領域に拡散し続けてきたが、今後はようやく収束させていかなければいけない。


でも面白いのは、もともと山本理顕への強い関心から始まって、その師の原広司や集落調査を追っていった結果、自分が建築をやるにあたって抱いてきた興味が、複雑に絡み合う糸を一本一本たぐり寄せていって、その興味の糸がひとつひとつつながっていったような感覚を得れたことだ。これは自分にとって非常に大きなことで、この研究テーマを突き詰めていった先には、根源的な重みもなく「きれいな(上手い)修士設計」をやるよりも遥かに強度をもった研究となるだろうし、それはつまり「時に耐え得る」ものだ。少なくとも自分の(建築)人生にとっては。それが社会にとってもプラスであり、時間に耐え得る(例え規模は小さくとも)かどうかは、今、そしてこれからの自分の動き次第だ。


ここ数年ずいぶん遠回りしてきた。自分の駄目さ加減をとことん嫌気がさすほど見てきた。そして、再出発だと意気込んで始まったこの一年も、空回りに空回りをし続け、この手に何が残ったか分からぬほど、ホント一体何を成し得たと言えるのか、というくらいの自己評価の約一年だった。しかし、遠回りしなかったら、あの時うまく自分の希望通りいっていたら、この研究はしなかったろうし、今扱おうとしているような設計思想には出会わなかったろう。というより、前から自分にその萌え芽はあったが、それは浅いままのもので居続けたかもしれない。今その建築的思想の大きなバックボーンを構築していこうとしているのだと思う。このことは今後の自分にとって大きな意味を持つと思う。そう思えば時間の価値・意味はその時にはわからない。ようやく光は射しつつある。


遠くに投げた石が落ちてくるのは遅い、が、あたると威力はデカイ。